寥郭堂
わたくしの家は高山市の西部、中世には三木氏の居城があった松倉山の山麓にあり、古来寥郭堂(りょうかくどう)とよんでいます、京都の乾山(けんざん)は尾形光琳の弟ですが、双ヶ丘(ならびがおか)の住まいを稜郭堂(りょうかくどう)とよんでいたそうです。南に三木氏が大分県の宇佐から招いた花里八幡宮がありましたが、金森氏によりいまは花里町に移されています。しかし、当時の放生池、神社跡があり、善應寺という別当寺がありましたが、豊臣秀吉の飛騨攻めで、先鋒にたった金森氏により三木氏は滅び、旧和良村(現在郡上市)にある戸隠神社から、大般若心経、一切経などが移されていました。しかし、落城した松倉城とともに、金森氏の手にかかり、善應寺も戦火にかかって炎上しました。わずかに焼け残った部材は、丹生川村の千光寺にはこばれ本道債権の部材として使われました。千光寺は鉈彫仏像で名高い寺ですが本堂の天井板にはいまも金森氏の兵らのわらじの足跡や血痕が残っているのが見られます。
このとき大般若心経、一切経なども千光寺に運ばれ、これも今に伝わるようです。
また、わたしの祖先は残された部材で小庵を作り、【寥郭堂】と名づけ、隠居所、寓居として使っていたようですが、飛騨を訪ねた文人墨客が多く訪れており、阿波の貫名海屋(ぬきな・かいおく)、加賀の三熊思考(みくま・しこう)、加賀の千代女、越前の橘曙覧(たちばな・あけみ)、豊前日田の広瀬旭荘(ひろせ・きょくそう)、伴蒿渓(ばん・こうけい)、浦上玉堂(うらがみぎょくどう)、岡亮彦(おか・すけひこ)、駿河の白隠禅師(はくいん・ぜんし)、紀州の徳本上人(とくほん・しょうにん)、諏訪の和四郎(立川和四郎)、島村峻表、良寛、大和安堵村の富本憲吉らその他多くの諸氏が残した書画が伝わります。残念ながら多くは失われましたが…。
三熊思考はこのあと千光寺に行き、桜の襖絵を残しています。余談になりますが岐阜県東濃の岩村出身の植物学者三好学白紙は桜の研究かとしても知られますが、この三熊思考の桜を求めて飛騨入りしています。
さらに麓には高山市の街が望まれ、東には北アルプスの峰嶺がつらなります。
新潟の穐艸道人・會津八一氏は自分の居所に寥郭堂と名づけておられますが、生前若干の関わりがあり、會津八一氏が昭和十九年に奈良県で出版された【歌集・山月集】は、戦災で世に出る前にほとんど灰になったそうですが、會津氏から贈られた歌集は、直筆の題簽とともに保存しています。